「ほら、顔をお上げ」

 刀を持たぬような奇麗な手を差しのべられて、桜はゆっくりと視線を上げた。


『桜、いいですか? あなたは相模の唯一血のつながった御子です』


――存じております、長老さま。

 ぼんやりとした視界には女性の長い髪と長老の御顔が映った。艶やかな髪は現実のもので、長老は夢のようなまぼろし。桜は、自分の宿命を言い聞かせるためにその長老を思い浮かべていた。


『相模を誑かした女とその子には決して気を許さぬよう。そなたは生粋の忍者。あの女の憎たらしい子には劣るまい』


 そうだ、目の前にいる人は、わるもの。信じては、決してならない。
 長老から散々言われ続けてきた女への侮蔑。女は柳といって、前当主の相模がいない今、柳は僅かな頼りある者と共に代当主の座に落ち着いていた。いつか柳の息子である者に当主の座を受け渡す気だと、長老たちは言っていたのを思い出す。四人いる長老たちのうちの、若い方がほんの少しの笑みを浮かべて言った。


『隙あらば、子共もろとも殺してしまいなさい』


 なんと残酷なことを言うのだろう、と後からそう思う。だけどそのときの自分は常に何かの役立つ存在でいたかったのだ。男の身で生まれなかった自分を恨んで、幸せと確かな愛に飢えていた。

――だけど、長老さま。

――――私に、この人を、柳さまを殺めることはできません。

 向かい合った長い髪の女性は、今にも泣きそうな表情で桜を見つめていた。今までそのような顔をされたことがなかった桜は狼狽しつつ、この人こそ自分の望む人なのだと知った。
 この人は深い愛を知っている。
 こんなにも、悲しい眼をしている。

「――ごめんね」
「……?」

 桜の手を両手で握りしめる。暖かな体温が伝わってきて桜は気を緩めた。

「なぜ謝るのです」

 桜が問いただすと柳は握った手をさらに強めた。痛いとは思わなかった。覚えのある限り小さい頃から忍者としての試練を受けた桜にしてみれば、柳は非力である。もとは庶民だとしたら、こんなにも手が奇麗なはずがない。相模に身を寄せるまでは、どこかの姫だったのだろうかと疑問に思った。

「なぜ」

 黙ったままでいた柳にもう一度問う。

「……私がいたから、あなたはここに連れ来られたのでしょう? 長老どのに言いつけられて……」
「御存じなのですか?」
「――長老どののことだわ、きっとあなたに私と私の子供に殺めるようにと命ぜられたのね」

 桜は驚きの表情を隠さなかった。不思議で仕方がなかったのだ。どうして長老の意図と、これから桜がやろうとしていたことも分かってしまうのか。桜は長老の傀儡同然であるために、長老の命じた意味をよく分かっていなかったのだ。
 桜の反応に柳はどこか納得したようだった。

「でもね、あの子たちには手を出さないでほしいの。……あの人の形見の子だから」

――この感情は知らないもの。

 自分に向けられたことのないその感情を、この人なら叶えてくれると直感した。
 そのためなら、今まで恐れながらも築き上げてきた長老と両親の縁を切ることだってできる。
 そう、思った。

「殺しません。あなたにも、あなたの子供にも」








『この子は長にならなくては』
『あの穢れた女の子供に負けては駄目』

――――おかあさま。

『女はいらぬ。男でなければ』
『この程度ならばお前を生むのではなかった』

――――おとうさま……。

――私、男になる。いっぱいべんきょうして、けいこをがんばるから。だから、





「私を見捨てないでっ……!」








 屋敷の中でも、柳が住む所は離れだった。桜が小さいころも離れに住んで過ごしていたが、ここはまた一段と景色に恵まれた所だった。屋敷には武芸を嗜めるようにと、たいていの庭に石を敷き並べてある。ここも同じようにあるのだが、その幅が狭かった。屋敷に比べたら狭いのは当たり前なのだが、特別離れが狭いというわけではない。盆栽をはじめ、多くの植物がかわれていた。きっと柳の趣味なのだろう。庭師でもなければ、こんなにも花を植えようとはしない。
 桜が足を踏み入れると、松と桜の木の下で咲いていた水仙が出迎えてくれた。冬の花は咲くものが少ないというけれど、桜は冬に咲く水仙の花が好きだった。春に咲く花々や夏の緑、秋の紅葉もいい。しかし、やはり雪に埋もれた芽吹きを見るのが一番癒される。おまえもがんばれよ、と励まされている気がするのだ。
 桜は、長老の命令もすべて放棄して、柳のもとへと行った。そのせいで柳が罵られるといけないので隠密に行動して、長老には従順なフリを続ける。そうすれば長老もしばらくは大人しくしていてくれるだろう。せっかちな長老だが、数年は騙されてくれるに違いない。
 このような心変わりしたのは、やはり柳の人格ゆえであろう。長老のような腹黒さも、親のような狡賢さもない。ただ、桜そのものを受け入れてくれた。
 だから、その息子も柳のような性格なのだと思っていた。




「閑、この子が九卿というの。これから私の息子として世話を見ることになったわ」
「……九卿?」

 離れについてさっそく柳の息子の閑に会った。なぜか閑は薬師たちと混じって薬を調合していたけれど、桜を頭からじっくりと遠慮なく見てからにっこりと笑った。

「へぇ、九卿っていうのか」

 九卿というのは長老から与えられた男としての桜だ。かつての長老の幼名だと知っている桜は身が震えるような思いだったけれど、何も知らない柳に怪しまれるといけないからそのままで通している。
 調合していた鉢を台に置くと、閑は近づいて名乗った。

「俺は閑。双子の片割れだ」
2008.02.11

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